「いやな予感」突然別れ 娘の28年

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「いやな予感」突然別れ 娘の28年
阪神・淡路大震災で亡くなった大城代敦子さん(左)(中本さん提供)  枕元にある母の写真を今朝も見つめ、そっとなでる。「優しかったお母さん。一目会いたい」。中本利子さん(70)=神戸市垂水区高丸6=は28年前の阪神・淡路大震災で、母を亡くした。寂しさと後悔で胸がつぶれそうになりながら、どうにか毎日を過ごしてこれたのは、やっぱり心の中に母がいたから。きょう、1月17日。神戸・三宮の追悼施設で手を合わす。 【写真】いとおしそうに母・敦子さんの写真を見つめる中本利子さん ■目の前に信じられない光景が  1995年1月17日、午前5時46分。同市垂水区の自宅で起きていた利子さんは激しい揺れを感じ、コタツにもぐり込んだ。そのとき、ふと耳元で母、大城代敦子さん=当時(71)=の声を聞いた気がした。  「いやな予感がする」。母は阪神住吉駅(同市東灘区)近くの木造2階建てに住んでいた。電話をかけたが、出ない。夫の好一さんと車で2時間ほどかけて到着すると、実家はぺちゃんこにつぶれていた。「まさか」。目の前の景色が信じられなかった。  駆けつけた親戚と手でがれきをかき分け、1階の寝室から母が見つかったのは夕方ごろ。体に触れた時の、冷たくて固い感触が今も忘れられない。あまりに突然の別れだった。 ■毎週日曜、母娘で喫茶店へ  父が病気を患っていたため、一家の大黒柱は母だった。外に働きに出て家族を養い、自宅では家事に子育て。いつも忙しく立ち回っていたが、子どもたちには優しかった。お肉が好きな利子さんのために作ってくれたフライ料理の、おいしかったこと。  60歳を過ぎ、仕事を辞めてからはようやく暮らしも落ち着いた。毎週日曜になると、母娘2人で喫茶店に行くのがお決まり。おしゃべりな利子さんの話をいつも静かに聞いてくれた。  怒った顔をほとんど見たことがない。3人きょうだいの末っ子だった利子さんは結婚するまで同居していたが、たまにお酒を飲んで帰ると、「あんまり飲んだらあかんよ」。たしなめる母の声にも、どこか優しさがこもっていた。 ■後悔の念、ずっと消えず  震災直前、連休だったのを利用し、夫婦で実家に泊まった。帰り際、見送る母が言った。「垂水(の利子さんの家)まで行くよ」。そんなことは、めったになかった。「寒いから」と高齢の母を気遣い、夫婦だけで帰ったその翌日、震災が起きる。  「あのとき一緒に帰っていたら、助かったかもしれない」。後悔の念はずっと消えない。  昨年8月、72歳だった夫の好一さんが病気で亡くなり、1人暮らしになった。広くなった自宅でぽつんと過ごしていたある日、1枚だけ見つかった母の写真を枕元に飾ってみた。  写真を撮られるのが苦手だった母と、結婚式の後にせがんで撮った1枚。緊張した面持ちで母が写っている。会いたくなる。  写真の前に好物だったコーヒーを供え、夜は「おやすみ」と声をかけて眠るのが毎日のならいになった。「そばにいてくれるような気がして、気持ちが少し落ち着くんです」  毎年、1月17日には三宮の東遊園地にある「慰霊と復興のモニュメント」を訪れ、母の名が刻まれた銘板に手を合わせる。きょうも足を運ぶつもりだ。  28年。今年は母が亡くなった年齢に追いつく。  「こっちは元気にしているよ。これからも、どうか見守っていてね」。そう呼びかけると、ほほ笑む母の面影が心に浮かんだ。

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